〈個〉からの出発

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて

「家族」という制度を自明視せず、しかしながらそれを解体することは目指さず、「家族」という名でかたられる装置に新たな意味づけをしていこうとする本書は、野心的な試みであると思う。

ところで、この本に所収されている岡野八代の論文「家族からの出発――新しい社会の構想に向けて」は、私と問題意識を共有するものである。岡野は、ロールズに代表される現代正義論が、政治と家族という「公私二元論」に立っていることを批判する。そして、ヘーゲルアーレントらの議論も、「公的領域」と「私的領域」という、古代ギリシャの範型を援用していることについて批判的に読み込んでいく。

岡野は、こうした公私二元論を、「家族にも正義論を適用すべき」という形ではなく、公私二元論そのものを脱構築していく必要があると論じる。私もそう思う。そこで岡野は、「他者への依存」を前提とするような社会を構想しようとする。そうした「依存」の許容される空間こそが、新たな「家族」の像を構築する、そんなふうに読める。

したがって、ケア・ワークを「愛の労働」として議論対象から排除してきた正義論の伝統を批判する合衆国の哲学者、エヴァ・キティの主張から、わたしたちは再度、社会のあるべき姿を構想し始めるべきなのである。それはおそらく、正義論が前提とするような契約関係を中心とする社会関係ではなく、具体的な生の、時間的な変化を加味した、生き難さを抱えながら他者を求める、そうした人間像のつながりの原理を模索することになるだろう。(p.55)

岡野のこうした主張は、「帰るべき場所、安心できる場所(=ホーム)から社会原理の考察を始める」ノディングスのような議論とも共振する(Starting at Home)。私は、このような議論を否定しないが、私ならもっと別様に言うのにと思う。それはやはり、この種の議論は、〈個〉を論じる視点が、どうしても後景に退いてしまうように感じられるからだ。たぶん、岡野にそのように言えば、「〈個〉は大事だ」と切り返されるだろう。だが、だとすれば、「生き難さを抱えながら他者を求める、そうした人間像のつながりの原理」が前提にしているような〈個〉から出発したほうが、私には腑に落ちるのだ。そして、そのような〈個〉は、岡野も私も批判する「自由で自立的な個人」でも、「無色透明の個人」でもなく、現に生きている、生身の個人であるはずだ。そして私は、そこから出発してこそ「依存」や「つながり」を考えたほうがよいと思っている。

岡野と私とのスタンスの違いが今後どうなるのか、楽しみである。