メンバーシップと宗教性

主流の英米圏の生命倫理学においては、「生きる権利」が付与されてよいメンバーシップの問題が議論されたりする。たとえば、重篤な障害をもっているならば、生かしても殺してもかまわないとする論理がある。これは、「ある種の属性をもつならば、生きる権利があり、それ以外であれば、生かしても殺してもよい」とする点において、上記の論理を主張する側が「人間中心主義」だと揶揄する、たとえばカトリックの主張などと論理の構造は同じである。

いっぽうで、そのようにメンバーシップの境界の正当性を要請しない論理も可能である。それは「どんな属性をもっていようとも、生きていてよい」という形式をもって主張される。私はそのように思っているが、しかしながらそのことを演繹的に証明するのはなかなか難しい。だから私は、このような主張のもとで展開される生命や社会の原理を描きつつ、主流の英米圏の生命倫理学のような、「メンバーシップの境界画定の正当性」を批判するという方向で考える。

現実には、メンバーシップの境界画定のない世界はあり得ないだろうし、むしろ現実世界でそうなってしまうならば、いろいろな問題が生じてくるだろう。だから、一定の境界画定は必要な場合がある。ただし、その場合にしても、そうして決められる境界には、正当性などないし、まったく恣意的なものだということを押さえておく必要がある。さらに、そのような境界を画定しておきながら、排除していないというのは矛盾しており、許されないということだ。障害者が生きられないような社会にしながら、障害者との共生をうたうことは、端的に言って矛盾しているということだ。堂々と「障害者を排除する社会が望ましい」と言うのが、論理的には整合する。

だとしても、いまや在特会のような連中が主張するようになってきている。ある意味彼らは自分の信条に実直であるということもできよう。そのとき、私たちと彼らとの間では、目指すべき方向に関して最終的には和解など不可能である*1。この意味で、私は「メンバーシップの画定問題」については、最終的には信仰の問題、宗教性の問題に行きつくほかはない、と思っている*2

*1:ただし、在特会のような主張は「排外主義」というより「自分勝手な論理」であると思うが。

*2:ただし、そうなる前に手を尽くすべきことは多々あるはずであり、私も微力ながら力を合わせたい。