「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察 : 障害者の生に即して

本論文は、障害者が社会において生きるということについて哲学的に考察することを目的とする。すなわち、障害者が生きるということに対して、主に思想の側面から光を当てようとする試みなのである。現代社会の中で、障害者の生を十全に肯定するためには、「彼らの生は<無条件に>肯定されなければならない」と主張することが必要となる。なぜなら、彼らの生は、ただ単に能力が低いからというだけでなく、それをも含むさまざまな理由によってその生を否定されてもいるのが現実だからである。それらすべての否定的な眼差しに抗する理論の構築は、障害者の生はもとより、社会的に不利な立場に捨て置かれ、その存在を否定された者たちの生を肯定するためにも重要である。
第一章では、「生の肯定」という主題が哲学的にどう議論されてきたのか、その一側面に光を当てながら叙述する。そのためにまず、「ただ生きる」ことの思想史をたどる。哲学においては、古代より「よく生きる」ことに関する思索がなされてきた。しかし、「よく生きることの実現」も、「ただ生きる」ことが保障されてこそなされるものである。ここにおいて、そうした思想史を反転させる必要がある。その中で、マルクスアーレント、そしてアガンベンという三人の哲学者の主張を吟味する。

第二章では、「生きることの意味」に焦点を当てた、主に心理学的な理論、とりわけフランクル人間学を検討する。生きることに「意味はあるのか」ということを考え抜く姿勢自体はとても意義があるものであろう。なぜなら、「生きることに意味はない」というようなシニカルなニヒリズムこそが、自らの人生を真摯に生き抜くことを阻害するものだと考えられるからである。だが、一転して今度は「生きる意味」を雄弁に語ってしまう態度も、違う意味で人生そのものを軽視する態度にも思える。誰が「他者の生きる意味」について語りうる資格を有するのか、という点の吟味が必要である。さらに、『夜と霧』における回教徒と名指された者についてのフランクルの叙述を批判的に扱い、回教徒の生をも肯定的に語ろうと試みる。そして、これらの議論から、「留保なき生の肯定」という概念を紡ぎだす。「留保なき生の肯定」とは、生きるということを無条件に肯定すること、すなわち、他者からの生の意味付与をことごとく拒絶するような生の様式のことである。自らの生を肯定するのも否定するのも、自らの意思以外はあり得ない。このことは、どんな生であっても、その生が無条件に肯定されるような選択肢を社会は用意すべきだということにもつながる。

第三章では、生命倫理学におけるパーソン論との対決を試みる。「留保なき生の肯定」概念とパーソン論の大きな違いは、生存の自明性を基礎づけようとしているかどうかという点にある。パーソン論は、生存の自明性を基礎づけようとしている。そして、理性のある生命には生存の自明性を与える。だが、こうした基礎づけ論には、大きな罠が仕掛けられている。具体的に、シンガーの論理や彼が依拠する選好功利主義を批判することにより、パーソン論批判を行う。選好功利主義の倫理判断には、「直観的レベル」と「批判的レベル」の二層があり、直観的レベルによってジレンマが生じたとき、たとえば二人の人間のいずれを殺すべきなのかというようなケースの場合、「批判的レベル」における判断が必要となる。そのとき、功利主義者は、考慮すべき効用が誰の効用であるかという点を考慮しないという特徴があるのである。シンガーは、「批判的レベル」について判断するときに、その存在者が「意識を持つのか」「感覚能力を持つのか」に注目し、自己意識や感覚というものを、ある生命が「生きるに値する生命」であるかどうかの判断基準にすることを提唱するのである。だが、シンガーの倫理学は、重大な欠陥を抱えていると考えられる。すなわち、誰を生かすのか、誰を殺すのかというような問題設定において、シンガーは関係者の個人的選好の束を吟味するのであるが、その個人的選好が社会的に構成されているという点を見ていないのである。すなわち、例えば、当人が社会的な差別を受けているとき、それに適応しようとして選好を形成してしまうことがある。果たして、こうした選好は本当に当人にとって望ましいものであろうか。つまり、選好あるいは願望の充足のみが、個人の行為の倫理的正当性を担保し得るとするなら、それは社会的な不正義を問う視座そのものを失うのである。

第四章では、「留保なき生の肯定」の実現が、実は正義論の問題であることを示す。そのときに、従来の現代リベラリズムが基礎づけ主義、正当化主義的正義論となっていることを批判し、それに対して非基礎づけ主義的正義論を構築する。まずは、リベラルな再分配派の論陣ですら、正当化主義の罠にはまっていることを指摘する。具体的には、ロールズとドゥオーキンの論が、基礎づけ主義的正義論であることを示し、彼らへの批判を試みる。正当化主義は、原初状態で構成されるメンバーの「他者」たちを論理的に排除してしまうのである。つまり、「他者」たちは正義の埒外に捨て置かれてしまうのである。そこで本論で主張されるのが、非基礎づけ主義的正義論である。そこで応用されるのが、ポパーらによって提唱された「反証可能性」理論による「批判的合理主義」である。それによって漸進的な社会改良を図っていこうというのである。それは、現実の社会から不正義を除去していき、最終的には不正義のない社会を目指し、不正義を一つずつなくすべく法制度を作成、改良していく立場である。つまり、不正義を告発する声を社会の価値観に対する反証であると捉えるのである。筆者が定立する正義の内容とは「すべての人が十全に生きることは、無条件に肯定される」というものである。その実現に向けて、それに反する社会的価値観に対して、言明のレベルで反証を繰り返していくのである。社会契約による正当化を目指す正義論から、「他者」の言明や存在そのものを反証として理解し、正義を構築していく論へと転換すべきなのである。筆者はそれを「境界線の正義論」と名づける。つまり、「境界線の正義論」は、いま、ここに現存する社会から論を始める。そして、正義を「構築する」というのではなく、「他者」からの「反証」を受け止めつつ、不正義を「除去する」といった形で正義を構想するのである。それに対し、社会契約に基づくロールズらの正義論においては、当該の原初状態や倫理的個人像から漏れた「他者」は排除され、正義は排除の装置となってしまう。「境界線の正義論」は、「他者」の現出の可能性を正義論に組み込むものである。

本論文の特徴は、「留保なき生の肯定」、あるいはそれと同義で使うことにする「生の無条件の肯定」を、「正義」として提示することにある。それは、実際にそれが実行可能であるとか、それはどんな場合にも受け入れられる、という主張ではない。それが一つの「法」として、実行可能性を持っている、などということを主張しない。ある一つの整合的な論理体系として、このような正義の定立も可能であるということを含意するにとどまる。しかしながら、「誰のどんな状態の生でも、まずは生きていてよい」と思えるということは、私たちのかなり根底的な感覚を構成する部分であるように思われるのである。そうした根底的な感覚のある部分に符合すると思われるような「生の無条件の肯定」を正義として要求する社会を、構想していこうとするのである。

CiNii 博士論文 - 「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察 : 障害者の生に即して