生を肯定する倫理へ――障害学の視点から

 本書は、障害者の生をその起点としながら、「生を無条件に肯定する」倫理学を模索しようとするものである。
 第1章は、日本においてもその学術的検討の蓄積がここ四半世紀のうちに活発化してきている障害学の視点を紹介し、その理論的・歴史的視座を紹介したものである。

 障害学の基本的な視点は、医学や心理学に代表されるような障害の理解、つまり障害とは個人の病理や悲劇であるという立場(医学モデル)を批判し、むしろ障害は社会によって生成されるものであるという立場(社会モデル)をとる。しかし、本書はさらに踏み込んで両者の違いを捉える。すなわち両者の違いを、障害によって生じる過分な生きづらさの帰責が個人や家族にある(医学モデル)か、それとも社会全体にある(社会モデル)かによる再定義を行うことで理解する。

 障害学は、研究者の机上の理論から生まれたものではなく、障害当事者たちによる生死を賭した社会運動によって生まれたものである。本書では、それがとくに顕著にみられる1970年以降の障害者本人たちによる社会運動の歴史に照準を当てる。とりわけ、本書が問題にしたい生命や倫理の問題に関して、脳性マヒ者による青い芝の会の運動を大きく取り上げた。彼らの運動は、ともすれば生命倫理学が陥りやすい「健全者の論理」を障害者の立場から鮮烈に批判したものであると考えられるからである。

 障害学の思想とは対極にあるものとして、優生学の歴史についても概説し、近代優生学の始まる19世紀半ばから21世紀にかけての優生学について歴史的にいくつかの種類に分けつつ分析した。現代におけるリベラルな形で迫られてくる優生思想として、個人の自己決定によるものであれば、それがたとえ優生学的な効果をもたらすものであったとしても、非難するにあたらない、というものがあることを示した。また、障害児の中絶と現存する障害者の福祉の向上は両立するのかという問いや、能力増強は福音なのかといった問いについても考えた。

 第2章は、福祉を考えるうえで基礎的な哲学的洞察、すなわち現代倫理学における分配的正義論について論じた。障害者の生を肯定するためには、その物質的生存をまず支える必要があり、しかも対価や功績によってではなく、必要に応じた分配がなされなければならない。そのような視点から、まずは功利主義と(ロールズの)リベラリズムを批判的に解剖している。次に、アマルティア・センの正義論を吟味した。センは、平等論が問うべきは「平等とは何か」ではなく、「何の平等か」であることを見抜き、財を効用に変換する「機能(functioning)」に注目し、「機能」の実質的な使用可能な束をケイパビリティと名付け、このケイパビリティを平等にする正義論を構築していった。この正義論が精神障害者知的障害者が包摂されうるものかは疑問であるが、身体障害者に対しては使いやすいものとなっており、正義論を一歩前進させたものであると考えられる。最後に、ベーシック・インカムに関して議論した。ベーシック・インカムの個人への無条件の一律給付は、いっけんすべての生を無条件に肯定するための物質的条件のように思える。しかしこれは、個人の必要性を測らないことによって、より多くの物質的支援を必要とする者たちにそのコストを負わせているだけであると考えられる。必要なのは、こうした測定によって貼り付けられる社会的スティグマをなくしていくことであって、必要性を測らないことによって回避すべきではない。その意味において、生活保護制度のほうがすぐれた制度である。

 第3章は、現代を代表する倫理学者であるピーター・シンガー生命倫理学ならびに倫理の捉え方を批判的に吟味することによって、倫理とはいったい何を問うているのかという問いに向かう。シンガーは、動物解放論で著名だが、動物の中でもある種の人間以上に倫理的配慮がなされるべきものが存在すると主張する。彼は、生物に対する倫理的配慮の序列を、意識ある生、意識はないが感覚はある生、感覚なき生というようにつけ、従来のキリスト教道徳による「動物よりも人間が優先されるべき」という倫理に「挑戦」する。シンガーの倫理学に基づけば、重度の知的障害者よりオランウータンのほうを優先して配慮すべきなのである。このようなシンガーの生命倫理学に対して、本書では2点の批判を行っている。1点目には、情報量の不足の問題である。シンガーは、個人の選好を倫理的判断の基準にするため、選好を表明できる意識中心主義に陥ってしまうのである。2点目には、誰が標準的かという議論を飛ばしていることである。暗黙の裡に、シンガーのような意識がある生物を標準的であると考え、意識がある側から倫理的配慮の境界を引いてしまっていることに無自覚な点である。

 そして、シンガーの倫理学に代表されるように、多くの倫理学が、喫緊の状況における行為の正当性や、その判断基準の正当性をもって、倫理を考えることであると称している。しかし、喫緊の状況においてはやむにやまれずとってしまう行為も多いのではないのか。それは、ギリギリの現場における処世術であり、倫理ではないのではないか。倫理を、行為の正当性(の判断基準)に縮減させて考えるのではなく、誰をも喫緊の状況に追い込まないようにするためになされるべきことと理解するべきではないのか。

 第4章では、前章末の倫理のイメージを手がかりとしつつ、「生を肯定する倫理」を目指していくため、他者と正義を基軸としつつ、倫理の姿を描いていく。まずは、「語り得ないもの」について、社会構築主義においてはその思考を禁欲すること、そしてウィトゲンシュタインにおいては「世界」の外にある「神秘」(「倫理」)であるということを述べた。次に、スピヴァクやサイードを引きつつ、「語り得ないもの」と「語らせないこと」、「勝手に誰かが語ってしまうこと」の政治性について述べた。関連して、「当事者が語る」ということの可能性と困難についても触れた。

 「語り得ないもの」について思考することによって、本書は「他者」という概念に行きつく。みずからの意思によって制御されないもの、自分の都合などおかまいなしに自己の中に侵入してこようとするもの、そうした「他者」こそが、倫理の源泉なのではないか。そして、そうした「他者」を歓待することこそが、「正義」と呼ぶにふさわしいのではないか。本書では、レヴィナスデリダの思索をもとに、その困難について引き受けつつ、「生の無条件の肯定」を倫理的命令であると位置づけた。

 最後に、倫理的な問いとして語られることの多い「救命ボート問題」について考えている。救命可能な人数以上に救命ボートに人が乗っているとき、どうするのが倫理的に正しいのか、という問いである。本書は、その問いがまさに倫理的な問いとして問われていることそのものを批判している。現実には、誰かを見殺しにするしかなく、そこに倫理などない。倫理とは、もっと手前で考えられるべきで、そのような状況を作らないようにするのが倫理ではないのか。あるいは、救命ボートをもう一隻用意することこそが倫理の命ずるところではないのか。「生の無条件の肯定」の倫理は、実行可能か否かに関係なく、ただそういうものとして定立されるものである、と締めくくっている。

生を肯定する倫理へ―障害学の視点から

生を肯定する倫理へ―障害学の視点から