「生き地獄を生きろ」などと言っているわけではない

「生き地獄を生きろという権利が誰にあるか」
http://blogos.com/article/98489/

を読みました。タイトルに端的に答えておきましょう。そんな権利、誰にもあるはずがありません。もちろん、この著者もそういう答えを期待して書いているはずですが。

問題は、児玉真美さんたち、尊厳死について疑問視する側が、「生き地獄を生きろ」といっているのか、というところにあるわけです。そして私は、そんなことは言っていないと考えます。この著者のような曲解が、尊厳死に対して批判的な、少なくとも疑問視するような声を勝手にこのように決めつけているのです。

金銭によってそれを支援するにしても、生活保護ですら非難され削減しろと言われるこの国で、それが期待できるのでしょうか。

ズバリ答えます。「期待できるの」かどうか、が問題ではないのです。支援「すべき」であり、支援「する」のです。それが社会というものです。

全人類に(というのが大げさなら全日本人に)聖人君子たれというのは、いささか無理があると考えます。

私は、社会制度とは、人の気持ちなどに左右されず、ただ「誰もが生きることを否定されない」ように存在すべきものであると考えます。したがって、個人が「聖人君子」になる必要などどこにもありません。むしろ、「聖人君子」などにならなくても、支え合っていくのが社会制度の意義であると考えます。「家族の有り様、家族の事情、家族の捉え方は人それぞれ」だからこそ、家族制度などを要介護者の自由や生存を守るものと規定するのが、そもそも間違いであるのです。

だから、

何もかも家族というか血縁者に押し付ける社会制度、社会認識というのは、“障害者や高齢者や介護者を棄て去る社会”と同じぐらい……胸の中のもやもやを感じます。

というのは、何ら児玉さんに対する批判にはなっていないのです。

増税しながら低所得者層や生活困窮者をさらに追いつめるような現代の政治は、「生きられるものだけがより良く生きろ、そうでないものは死ね」と言っています。そしてそれをイカンと言うのなら代替案が求められるわけですが、それは家族愛などという耳障りがいいだけのあいまいな言葉でごまかすべきではないでしょう。

代替案を「家族愛」に求めるからダメなのです。代替案は「社会制度」です。

最後に、著者はこう結びます。

死にたい、生きたい、生かせたい、死ね、それぞれの考えをタブー視せず、現実的な制度を模索するしかないんじゃないでしょうか。

私は、尊厳死賛成の意見を見るとき、いつも思うことがあります。それは、この人たちのほうこそ、「死にたい、生きたい、生かせたい、死ね、それぞれの考えをタブー視せず」と言うにもかかわらず、「懸命に生きる道を探す」ということをタブー視している、ということです。「尊厳をもったまま死ぬ」「上品な死」「良い死」という美名のもとで、苦しみを抱えつつ、それでも生きる人たちの姿をタブー視しようとしているのです。これはなにも、「生き地獄を生きろ」などと言っているわけではないのです。その人が「生き地獄」と考えるような生を生きざるを得ないとき、どうすればもっと穏やかに生きることができるか、それを探していこうとすることです。「死なせてあげる」というのは、あまりにも短絡であり、あまりにも「たんに生きることの価値」を低く見積もっています。

このような現実を目の前にして、「現実的な制度を模索するしかない」ことはありません。それが間違っているなら、現実を変えるべきなのです。〈生きることの価値〉を低く見積もらないような、あるべき社会制度に変えていくべきなのです。それが「現実的」であるかどうかではなく、あるべき方向に変えるのです。