安楽死と尊厳死の違い――それがどれほどの「違い」か

ブリタニーさんの死をめぐって、にわかに「安楽死はダメだが、尊厳死はオッケー」というような論調が見受けられます。いまに限ったことでもありませんが。ここでは、それらの「違い」について、批判的に検討していきたいと思います。

日本尊厳死協会のホームページを見ると、「リビングウィルQ&A」というコンテンツがあります*1。その「【差し控えと中止】装着した人工呼吸器などの延命措置を外すのと、初めから付けないのは同じですか。実際にできますか」の項と「【尊厳死安楽死尊厳死とは安楽死とどう違うのですか」の項とをご覧ください。それらによると、安楽死尊厳死との違いは、「「命を積極的に断つ行為」の有無」であり、治療の「不開始」(「差し控え」)と加療の「中止」との違いです。協会は、すでに加療が進められている患者に対して、その中止を法的に保障しようというのです。それは、たしかに医療の中止ではありますが、積極的に命を断っているわけではないから許されるべきだとするのが協会側の理路なわけです。
ここで、医療を登山あるいはマラソンになぞらえてみましょう。病気を発症して、治療拒否することは、登山しない、あるいはマラソンのスタートを切らないことを意味します。ここで医療が積極的にスタートさせないのが、安楽死です。登山を開始、あるいはマラソンのスタートを切った後で、「もうこのあたりでやめておこう」として医療行為を中止するのが尊厳死です。一見、それらの「違い」はあるように思われるかもしれません。

医療の到達点は、患者と共に頂上やゴールにたどりつく、すなわち完治すること、もしくは、頂上やゴールに立てなくても、山道やマラソンコースを、えっちらおっちらしながら、患者に寄り添いつつ進むことなのではないでしょうか。途中で亡くなったとしても、到達したところで「埋葬」してくれるでしょう。しかし、尊厳死はどうでしょうか。「そんな死に方はみっともない」として、患者はスタートへと戻され死ぬことになる、こういうイメージなのです。「スタート地点」で死ぬことこそが、「美しい死」のあり方である、そう主張しているように、私には思えます。

またここで、登山やマラソンに際して、費用がかかってしまうこと、周囲の負担がかかってしまうこともまた、患者をスタートをさせない、あるいはスタートしても「もうこのあたりでよい」と、生きることを諦めさせ、尊厳死をさせる素地を作っているといえます。「そこまでして生きさせてもらうのは申し訳ない」と、患者は思ってしまうのです。ここに、私たちが「患者はそこまでして生きなくてもよい」という意識があることが見え隠れしている、そのように言うことができるでしょう。この「そこまでして」という内実に、社会に過度な負担をかけてまで生きるなという、優生思想そのものというしかない考えがあるのです。患者にとっては、「生きるのをあきらめる」という点においては、安楽死尊厳死も変わらない、と言えそうです。

それでも、確かに加療した方が、「生きる期間が長くなる」という違いはあるでしょう。それに関しては、大きな違いであると思います。ただ、そのような違いがあるとは言え、ゼロからスタートしない、あるいはゼロ地点に戻される死のあり方を「美しい死」として一元化するのはやめたほうがよいのです。途中に山小屋や給水場をたくさん作り、患者に少しでも生きてもらうことを選ぶことができるような社会を作っていく方が、望ましいと言えるでしょう。

人はみな死にます。私は、「治療をするのが尊厳のある死で、治療を断るのは尊厳のない死である」と言う気もまったくありません。ただ、社会が、ゼロの死のみを尊厳ある死と言い、山道やコースでのたうちまわって死ぬのを尊厳がないと言うなら、そういう社会は間違っているだろう、と思うだけです。