そんなに尊厳死がよいのか

尊厳死について…多くの死を見てきた医療従事者たちのコメントが心を打つと反響」
http://labaq.com/archives/51837879.html

を読みました。タイトル通り、掲示板での「海外の医療や医学に携わる人々の意見」が寄せられています。

まだ若い家族が、命の質をとるか、長さをとるかで苦闘する姿も見てきました。

だとすれば、医療がすべきことは、「命の質」も、「長さ」も、両方達成可能なようにすべきであるはずです。ましてや、このような二項対立を煽ることが医療従事者のすべきことではないと私は考えます。

政府の補助金が途絶えないために、患者を生かし続けるように主張する家族の姿を何度も見てきました。

だとすれば、そのように「主張する家族の姿」に対し、疑問を投げかければよいだけのことです。このことと、患者の命とは、関係がないはずです。患者の医療の問題ではなく、患者家族に社会政策が行き渡っていないだけではないでしょうか。

むごい亡くなり方をする人々も見てきました。彼らは生きているとは言えません。とても人間とは言えません。肉の塊になっているだけのときもあるのです。チューブや点滴でつながれ、私たちが呼吸をさせ、血液をきれいにし、半永久的にそんな状態にし続けることができるのです。

これはひどい差別発言だと思います。「とても人間とは言えません」と平気で言えてしまう医療従事者の感覚を疑います。この医療従事者は、どこかで「標準的」な人間を想定しているのでしょう。この人から見れば「肉の塊」でしかないとしても、いままで生きてきた生身の肉体であるわけです。この人が考える「標準的」な人間から逸脱するような存在は、「人間が受けてしかるべき医療」など受けられないのでしょう、きっと。「むごい亡くなり方」をしたのなら、その責任は、患者が受けた医療方針そのものにあるかもしれないのに、患者の姿のせいにされる。ひどい発言だと思います。

だけどそれを生きているというのでしょうか。そして何が残るのでしょうか。しかし痛みは感じています。そんな死んだような状態で、とても苦しんでいるのを見ることができるのです。生かし続けるべきだという主張のために。

「痛みは感じている」のなら、少なくとも生きていると言ってよいのです。この医療従事者の予断と偏見のために、生きている患者も死んだように表象されてしまうのです。医療が患者を生かし続けて、何が悪いというのでしょうか。痛みがあるのは、たしかに当人にとっては苦しいものでしょう。しかし、それを周りが、なかんずく医療従事者が「死んだような状態」だと言うのは、その患者当人に対して失礼です。また、その患者と同じ苦しみを抱えながら生きているすべての人に対して失礼です。

動物は安楽死させるのに、人間は苦しませてもいいという考えが理解できないままだ。

動物の安楽死も、非常に問題です。尊厳死に対して懐疑的な人たちも、「苦しませていい」と言っているわけではありません。苦しんでいることは残念なことです。疼痛緩和のために、医療は最善を尽くすべきです。最善を尽くしたのちでも、苦しみは残ることがあるでしょう。その場合においても、周りが、当人が苦しんでいることをもって殺すことは決して正当化されない、そのように言っているのです。

まだ意見は続きますが、似たようなものばかりなので、とりあえずこのあたりでいったん留めおきます。