「作田啓一『欲動について』」について

今日買った2冊があまりにも(ダメすぎて)面白すぎると思ったので、メモしときます。
まずは、作田さんの本の、那須さんとの会話。

那須:日本の人は、レヴィナスについて、他者の話しかしない。ほんとうはその手前に、レヴィナスのなかに、人のことなんか知るかって言って、巣の中に引きこもってしまう状態があるんですよね。「引きこもり」っていうのがそれにあたるのかどうかわかりませんが、世界のことを自分はひきうけたくない、引きこもっておいしいものを食べたい、そういう状態になっている人だからこそ、大他者に会えるチャンスを獲得するという言い方をしているのではないか。

「引きこもり」の人は「おいしいものを食べたい」と思えるような状態ではないだろう、という批判は当たっているにせよ、ここまではまだ「認識違い」だけで、私は許容範囲だ。
だが、次に作田さんは強烈なパンチを繰り出す。那須さんも応戦してパンチの乱れうちである。

作田:日本の研究書を読むと、ちょっとそういうことを言っているのは内田樹だけでしたね。住居論のところで引用してました。
那須:内田さんは単純な、いわゆる善人性みたいなものに抵抗している人ですね。フェミニズムとか、戦後責任とかいった議論のなかで、わかりやすい倫理的断罪に飛びつくのはかえって危ういんじゃないか、ということを言っていますよね。(p.71)

確かに、那須さんは事実を述べているだけだ。内田樹高橋哲哉を批判している、と。ただ、前後の文脈において、批判の妥当性については言及していない。私は内田の高橋批判は当たっていないと思うのだが、那須さんはそういう判断を避けている。しかし、この文脈からあきらかなように、「レヴィナスを利用してフェミニズム戦後責任や倫理や善を考えよう」とする態度を、どこかシニカルに見ている、そう思えてならない。
そして、作田さんが暴走する(笑)。

作田:レヴィナスは、労働する男を女性が歓待するという文脈で書いていて、その女性性に他者性を見ている。もう一つがヴァルネラビリティーだったんだけれども、仕事が発展するとそっちが主になって、最初のものがなくなってしまうんですよね。
 僕は、その女性性なるものが現実界にあって、世界の中に母として登場せざるをえなくなったときに、それが非常にヴァルネラブルな存在になるというストーリーをつくったんです。(以下略)(p.72)

いや、すごいですね。レヴィナスのダメな部分を継承するなんて。
こういう、シニカルな視点からフェミニズムや倫理について論難する作田さん(そして那須さん)の「欲動について」、知りたいものでございます。

そして、那須さんの本はバーリンについて。これはまだパラパラめくっているだけですが、どうやら「バーリンという面白い人がいる」という趣旨らしく。私は、バーリンといえばリベラリズムのダメなところをわかりやすく体現しているシオニスト、つまりは反面教師として理解していますが、その私の理解となった記事と書籍を最後に紹介しておきます。

早尾貴紀シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」
http://palestine-heiwa.org/note2/200705230511.htm

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

私は、リベラルだけでは足りない、そう常々思っている。リベラルを社会に根づかせるためには、リベラルとは異質な価値観が必要なのである。リベラルを正当化するような、それじたいは正当化不可能な何者かによって、リベラルは要請されるのではないか。だから、単にリベラルだと言われても、私はそんなものは信じない。