倫理学とはどういう学問か

倫理学のイメージ
倫理学は処世術ではない
倫理学とは「他者とともに幸せに生きる」ための学問
倫理学のイメージ
 たとえば、数学という学問は、数という概念や数字という記号を用いて研究する学問です。数学はさらに代数学解析学幾何学、確率論、集合論などに細分化されます。この細分化された領域の名称が、何について研究するものかということを明示します。もっとも、幾何学といえども大学において学ぶその内容とは、視覚に訴えるような図形に関する研究というよりは、むしろ図形をも数字や文字の列で表しながら、その性質を解明していくものなのですが。
 これに対して倫理学とは、非常にイメージしづらかったり、また誤った理解のなされ方をされるようです。倫理学は、「倫理」に関する学問であることは間違いないのですが、果たして「倫理」とはいったい何なのでしょうか。この問いに答えようとするとき、人によって答え方が違う――ですから、本書は筆者が考える「倫理」の像を明らかにしていくことになります。それぐらいバイアスのかかったものなのです――こともまた、倫理学をとっつきにくくさせてしまう原因なのかもしれません。
 「倫理」とは、どういう意味なのでしょうか。「倫」という字は、「人の道、人としてあるべき道」という意味であり、「理」という字は、「ことわり」という意味です。したがって、「倫理」とは、「人としてあるべき道についての掟」のようなものであると言ってよいでしょう。倫理学は、そうした掟について研究する学問である、当座はそのように理解しておきましょう。「私はいかに生きるべきか」という問いについて考える学問である、と言い換えてもよいでしょう。
 倫理学とは、学問の分類で言えば、哲学のひとつの領域です。哲学とは、これもまた人によって答え方が違うところですが、大雑把に言ってしまえば、人生のあらゆる出来事を、その根源に迫って考えてみるという学問です。倫理学は、別名「道徳哲学」(Moral Philosophy)とも呼ばれるように、道徳について考え抜くための学問であると言えると思います。道徳とは、正邪や善悪といった判断およびその判断のもととなる考え方のことです。つまり、「何が正しい(正しくない)ことなのか、何がよいこと(悪いこと)なのかについて、根本的に考えてみる学問」が倫理学であると、とりあえず理解しておいてください。
 それでは、「人としてあるべき道」とはいったい何でしょうか。あるいは、そのようなことを考えたり研究したり教えたりするということの意味は、いったい何でしょうか。ここで出てくる「べき」という語に注目したいと思います。この言葉は、正しさやよさに関係することがらを表します。そして、倫理学への期待も懸念も、すべてここに凝縮されているように思われます。「倫理学を勉強したら、正しい行為やよい行為について考えるための導きの糸になる」や「そもそも生きている人間が正しさとかよさなんてわからないのだから、そんな学問や研究をしたり、ましてや人に教えるなど、不遜である」という意見があると思うのです。確かに、倫理というものは、正しさやよさに関することを考えることなしには済まされません。だからといって、倫理学が誰かに正しい道を教えるとか、よい行為を指示するというものではない、むしろそうしたことが前提にするものを考えていくことが、倫理学という学問であると私は思うのです。

倫理学は処世術ではない
 さきほど、倫理学とは「私はいかに生きるべきか」という問いについて考える学問である、と述べました。その問いは、往々にして「私はこの現実においてどういう行為を取ることが正しいのか、どのような行為がよい行為なのか」という問いに縮減されます。確かに、正しい行為、よい行為や正しさ、よさの理由を徹底的に考えることも倫理学が問うべきことのひとつであるように思います。しかし、「私がいかに生きるべきか」という問いを「私はどのような行為を取って生きるのが正しいのか」という問いとはまったく違います。前者の問いを後者の問いへと還元してしまうことこそ、倫理学が問うべき大切な要素を削ぎ落としてしまっているように私は思います。それはなぜでしょうか。理由は二つほどあります。
 一つ目の理由は、行為の正当性やその根拠を考えることには論理的な限界があるからだ、ということです。つまり、倫理学は正当化によっては正しさやよさやそれらの根拠を決めることができないということです。「この行為は正しい」というとき、その理由が納得されなければ、再びその理由の理由を言わなければなりません。こうして、理由が納得されない場合、正当な根拠である理由探しが無限に続いてしまいます。結局、無限後退を途中で終わらせるには、どこかで同語反復に陥らざるを得ないわけです。
 二つ目の理由は、「私がいかに生きるべきか」、言い換えれば「私がよく生きるとはどういうことか」という問いと、「私がなすべきよい行為とは何か」という問いとは根本的に違うからです。「よく生きる」というのは、もちろん「正しい行為をする」「よい行為をする」ということを含むでしょうが、それだけには到底還元できない射程を含むわけです。
 その理由のひとつとして、正しい、よいというのが何に対してかが問われないことが往々にして隠蔽されているということが言えます。たとえば、赤信号で渡ってはいけないというルールのもとでは、赤信号で渡らないということが正しいこととされます。「嘘をついてはならない」というルールのもとでは、嘘をつかないという行為が推奨されるわけです。このように、道徳に関するおおもとのルールに対して、ひとつひとつの行為の正しさが判定されるわけで、そこに留意する必要があるわけです。
 私たちは、現在の社会を、動かしがたいものであると考えます。そして、往々にしてこうした現実のもとで行為の判断の基準が決められたりします。つまり、私たちは動かしがたい現実を、「動かしがたいからそのような現実を仕方ない」と思い、現実に可能な行為だけしか価値判断の枠の中に入れないという傾向があります。ここに大きな誤りがあります。現実が動かしがたいのは事実ですが、そうだとしても現実がこのようにあるということと、このような現実であるべきだということとは、まったく異なることです。それにもかかわらず、「あるべき」である、もしくは「仕方がない」といって許容する現実に対して、私たちの行為の正しさやよさが決められたりするのです。これでは、現実に不正義があったとしても、それを問うことはできません。現実がたとえ不正義だとすれば、そのなかでの行為の正しさやよさは問えないと私は考えていますが、与えられた現実のなかでの最も適切な行為を私たちは「正しい」行為であると言ってしまいがちになるようです。確かに、与えられた現実が動かしがたく、そのなかで生きていかねばならないなら、最も適切だと考えられる行為を取るべきだし、それを考えることに意味がないわけではありません。しかしながら、動かしがたい現実のほうに問題があるのであれば、少なくとも最も適切な行為は「適切」であるにとどまり、「正しい」行為ではないはずです。ここを間違えてしまうと、倫理とは単なる現実に対する処方箋のことになってしまいます。それでは、倫理学は単に従うべきルールやルールの根拠を考えるにとどまってしまいます。
 もうひとつ理由があります。それは「正しくない行為をしても、よく生きる」という道があるのではないかと私は考えるからです。たとえば私たちは、生きていくために、動物を殺して食べたり、他の生命を犠牲にしたりしています。これは厳然とした事実です。その意味において、私たちは根源的に非倫理的な存在であると言えるでしょう。
 ただし、そうした私たちのどうしようもない非倫理性に居直るということと、非倫理的なことはどうしようもないがそれでもそれを見つめ直し、隙あらば自らの非倫理性を変えていこうとすることとはまた別のことです。そして、たとえ正しくない行為をしたとしても、正しくない行為をしてしまう自らを問い続けていくこともまた、「よく生きる」ことを構成する要素ではないかと思うのです。そのとき、現実が私たちに正しくない行為をさせてしまうなら、そうした現実を変えていくこともまた、「よく生きる」ことの内実として位置づくのではないかと私は思います。

倫理学とは「他者とともに幸せに生きる」ための学問
 ここで、私の考える倫理というものを、定義しておきましょう。さきほど、倫理とは「人としてあるべき道についての掟」のことであると述べました。そしてその後で、「いかに生きるべきか」「正しく生きる」「よく生きる」というようなことも述べました。これらを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
 私たちは、この社会のなかで生まれ落ち、いままで生きてきました。ひとりとして他の生命、他人の存在と関わらずに生きてきた人はいない――そうした経験が経験した当人の中でどのように位置づくかはともかく――と思います。まずはこの事実から出発します。
 私たちは、「このときにこのようにするべきだった」と、自身の行為について反省することがあるでしょう。また、現在、「このようにするべきである」と思い、実際にそのように行為したりしなかったりする中で、さまざまな感情をもつことがあるでしょう。確かに、私たちが生きている中で、どのように行為すべきかという判断基準とその理由を、可能な限り考え抜くことも、倫理について考えることです。しかし、先ほども述べたように、倫理が対象とすべきは、個人が取るべき判断基準や、その基準に関するルールだけではありません。それらだけを倫理の対象とすることには、「選択可能な行為の中から基準を作り出す」という、隠された前提があるのです。
 誰もが同様に、生きることからなにがしかを享受しているとすれば、倫理の対象は生きている中における行為の妥当性の議論だけで済むでしょう。しかし現実はそうではありません。誰もが「この世に生まれ落ちること」、つまり「生を享けることそれじたい」だけは同じであるとしても、その生まれ落ちた個人は誰一人として同じではありません。そのような「生の多様性」とでもいうべき事実によって、私たちの社会は構成されています。そこには、生物学的な個人差、環境や社会的要因による個人差、それらのどちらともつかない、いわばグレーゾーン的な個人差など、さまざまな差があるはずです。
 すなわち、個人の行為の妥当性を中心に展開される倫理学というのは、往々にしてこうした生の多様性を無視するか、あるいは無視していてもそれを見ないようにする巧妙な工夫を、正当化という装置を用いて行う傾向があります。それはまた、事実として存在する個人の代わりのきかなさを、理論上は捨象しているということなのです。つまり、理論が現実を正しく映し出していないのです。
 個人の代わりのきかなさ、個人が誰一人として同じではないという事実を否定しないならば、そうした事実と矛盾しない理論が必要となるわけです。個人の行為の妥当性を中心に展開する倫理学が、個人の代替不可能性を重視しない、ともすればそれを否定するような結論をさえ導くのなら、それとは別様の倫理学、倫理に対する考え方が必要になってきます。
 たとえば、倫理学の問いとして、よく取り上げられるものに、以下のような例があります。「電車が暴走した。このまま暴走すれば線路で倒れている五人が電車の下敷きとなる。だが、その手前に切り替え線が用意されている。線路を切り替えた先には、一人だけが倒れている。あなたが線路の切り替えを操縦しているとき、電車の進む道を切り替えて一人を殺すべきか、それとも切り替えずに五人を見殺しにすべきか」。こうした問いが倫理学の問いとして語られることじたいに、個人の行為の妥当性を中心とした、「正当化」の倫理学が見え隠れするのです。
 助かる人数が多いからという理由で、五人を殺さずに一人を殺すことを正当化するならば、生ある存在をただ単に頭数で数えることを正当化していることになります。これは、個人の代替不可能性を、代替可能なものの単位としての数字で置き換えることを正当化していることと同じですから、理屈としておかしいはずです。また、五人を選ぶか一人を選ぶかはわからないが、身近な人がいないほうを殺すということも、現実の判断としてはありうる理由です。ただ、それを倫理的な行為として考えるならば、身近ではなかったり、あるいは気に入らない人の存在を殺すことが正当化されることになります。「生きたい」と思っていても、身近ではない、あるいは気に入らないという理由で誰かに殺されることが正当化されるような社会において、果たして私たちは生きた心地がするでしょうか。誰かに殺されるのではないかと恐れながら生きなければならない社会を、私たちは心底から望んでいるでしょうか。
 このように考えたときに、倫理とは、限られた選択肢の中で私たち個人が現実にとらなければならない行為の正当性とは違った、あるいはそれを射程に入れながらも正当性を越えたところで考えなければならないはずだということになるでしょう。では、どのように考えればよいのでしょうか。
 先ほど、「生まれ落ちた個人は誰一人として同じではありません」と述べました。確かに、生まれてきたことそのものはどのような生命であっても同じであるわけですが、その生を送り続けることがさまざまな理由によって困難である場合があります。倫理学が第一義とするべきは、たとえどのような生、どのような存在であったとしても、そうした生や存在が生き続けることを困難にさせるどのような理由の正当化をも拒絶しなければならないことであると、私は考えています。言い換えれば、倫理学とは、「他者とともに幸せに生きていくためには、どうすればよいのか」を考える学問でなければならないと私は思うのです。それは到底、限られた選択肢の中で私たち個人が現実にとらなければならない行為の正当化などという近視眼的な思考とは異質のものなのです。
 それでは、「他者」とはいったい誰のことなのか、「ともに」の内実とはいかなるものなのか、「幸せ」の定義は可能なのか。そういったことをまずは順番に考えていきましょう。そしてその一つひとつが、倫理学を考える上で非常に重要な部分となるはずです。ただし、その場合においても、全体として倫理学とは何をする学問であるのかについて把握しておくことはきわめて大切ですので、頭が混乱してくるようなことがあれば、いつでもここに戻ってきてください。