原発反対と障害者

私は原発反対である。ただ、このところの論調を見ると、やはりというか、憂慮すべき事態が起こっている。

それは、「妊婦への被ばくが、胎児に悪影響を与える」という原発反対の理由である。たとえば、日本産科婦人科学会が出した文章がある。

福島原発事故による放射線被曝について心配しておられる妊娠・授乳中女性へのご案内(特に母乳とヨウ化カリウムについて)
http://www.jsog.or.jp/news/pdf/announce_20110316.pdf

福島原発事故放射線被曝による、ご本人、胎児(お腹の中の児)、母乳ならびに乳幼児への悪影響について心配する必要はありません。

ここで言われる「胎児(中略)への悪影響」ということについて、ここでは甲状腺がんの発症率が高くなる、と言っているが、「胎児が被ばくしたら、障害をもって生まれてくる可能性がある」という理由での原発反対論者もいる。

実は、四半世紀前のチェルノブイリ原発事故でも、そのようなことが言われた。堤愛子は、これを批判している。

「ありのままの生命」を否定する原発に反対
http://www.geocities.jp/aichan822/hanngennpatu2.htm

放射能の影響で障害児が生まれる」という不安は、原発に反対していく「理由のひとつ」にすぎないし、反原発運動全体の「一部分」でしかないだろう。しかし、その「一部分」が、案外人々の心に受け入れられやすく、広がりやすいことに私はこだわる。「障害者、イコール不幸」という考え方が、運動を通じて人々、とくに子どもたちの心に植えつけられていくことに、大本さん同様、私も強い危惧と不安を感じている。

私自身も、こうした「危惧と不安」を感じる。原発反対の市民運動が、障害者を差別する社会を前提に、そこを問わずに障害児が生まれることへの不安をあおっているのである。

堤は別の文章で、次のようにも述べる。

ミュータントの危惧
http://www.geocities.jp/aichan822/myuutanntonokigu.htm

先日、反原発に関する学習会の場で、
「反原発運動を支えている人々の意識の底には、『生まれてくる子が障害児だったら』という恐怖感が大きくあるんじゃないの?」と発言したら、
「それは考え過ぎだよ。皆、自分の生命そのものの危機感によって、行動していると思うよ」と反論された。
集会や学習会の場で、正面きって「障害児はイヤ」という人は、まずいない。でも、本音はどうなんだろうと、執念深い私はシツコク考えてしまう。現に同じ学習会で「放射能は人体内で濃縮されるので、障害児が生まれる可能性は高い。そのことをもっとPRすべきだ」という意見も出ているのだ。

原発反対の理由を、障害児が生まれたらかわいそう、というのは悪質なすりかえだ、そう堤は述べていると読める。そして堤は、「「障害者はかわいそう」「障害児なんて産みたくない」とする考え方や、「障害」を恐怖の象徴に仕立てようとする人々の意識も、「障害」をもつ人々のかけがえのない生命と人生をおびやかすものとしてやはり「反対!!」といいつづけていくつもりだ」と締める。私もまったく同じように考える。堤の論理は明快だ。障害者もそうでない人々も、その生命や人生がかけがえのないものであるからこそ、原発に反対しなければならない。これ以上わかりやすい文章はない。

今回の震災による原発事故も、障害者を否定する理屈の上に立って原発反対を主張する人たちも、表立っては見えなくてもいるのではなかろうか。堤と同じ主張をしなければならないなら、それは私たちの社会が障害者のいのちに関して四半世紀前と同様に軽く扱っているということの証左である。