「自己否定」という自己正当化

思うところあって、学生運動について考えてみたい。無論、ここに書くようなことではなく、黙々と社会をよくするために運動してきた方々には、頭が下がるし、こんな若造が書くということにかんして、いささか申し訳ないかぎりだ。
私が大学に入学したのが1992年。80年代なかばに入学していた運動の先輩たちが、「6年生、7年生」をやっているところだった。そんな時代だから、セクトとかもそれほど激しいものではなかった。私の通っていた大学は、民青の立て看(正確には「捨て看」というらしいですが)が立ててあるぐらいで、もう衰退末期もいいところだった。
それでも、昔の活動家の先輩たちの「勇姿」は、本で読んだり、聞き伝えしたりした。「自己否定」「総括」……このようなことばが、あるいは論理が、しだいに違和感なく私に入ってきた。
「私たちが生きづらい、いまの社会体制は間違っている。間違っている社会に迎合しようとする自己を、徹底的に否定し、批判するところからしか社会改革は始まらない」。そうした文言が、90年代初期の20歳前後の私に突き刺さった。私の先輩にも、大学という権力場に抗しながら生きていくことを選び、優秀な成績で卒業できるにもかかわらず、「このまま大学を卒業してよいのか」と自問自答し、結局論文は書いたが卒業はしなかった人がいる。学生のときに出会った青い芝の会という障害者運動がきっかけで、彼は自己批判し、いまは高卒という履歴のまま知的障害者のデイサービスで働く。
私は、ずっと彼のような生き方をかっこいいと思ってきた。いまも彼は、デイサービスに通う障害者にかかわる学生に対し、迷っていたら大学なんてやめちまえと、大学をやめることを推奨する。なかには、親を説得して大学をやめた学部の子もいる。そりゃ、先輩だし、そういう生き方に憧れをもつのも理解できる。
ただ、大学をやめることで、自らの権力性を捨てられる、と考えるのは、早合点だろう。むしろ、「大学をやめるか、やめないかという選択の場に立てている」ことじたい、すでに権力性を帯びているのではなかろうか。そうであるとするなら、選択の結果やめても、やめなくても、それほど変わらないのではないか。問われるべきは、やめた後、あるいはやめないことを選んだ後、みずからの選択に対しいかに言い訳をしないか、にかかっているのではないだろうか。こう考えると、私には学生運動が主張してきた「自己否定」というものが、実は巧妙な形で「自己正当化」という欲望に連なっているような気がするのだ。「自己否定」した自分は正しい、正当だという欲望が、実は活動家のこころに潜んでいたのではなかろうか。
故・河合隼雄は、学生運動の活動家に対して、「甘えのこころがかれらを運動へと進ませている」と述べたそうだ。これはあながち間違いではない、半分ぐらいは当たっていると思う。もっとも河合の間違いは、そうした言明から「こころの問題」へと一元化しようとしたところにあると私は思う。学生運動の活動家が発した、「生きづらいのは世の中のせい」というのは、基本的に当たっていると思う。
どのみち、生きていれば権力性など逃れることができない。生きていることそのものが「政治」だと思う。だとすれば、自分が行使しうる権力に常に敏感になり、そしてそういう自分を決して棚に上げず、正当化の欲望に抗していくことしかできないのではないかと考えている。