障害者の立場から「戦争法案」に反対します

 私は、身体に障害を持つ者です。今国会で議論され、すでに衆議院では可決されてしまった「安全保障関連法案」(以下、法案の意図を汲み取り「戦争法案」と略します)に、私は、障害者の立場から反対します。以下に、その理由を3つ挙げます。
1.社会保障の切り捨てと、戦争への道とは、表裏一体です
 この国の社会保障のあり方が、そもそも公的な部分の比重が少なくはあるのですが、とりわけ、自民党が政権を奪還し、安倍内閣が発足して以来、社会保障に関して、その切り捨てが激化しています。社会保障の対象者となる障害者や高齢者などは、戦時下では足手まといな存在です。その意味から、社会保障を十全に行わず、その対象者が「自滅」してくれれば、足手まといが「自然と」消えるのです。
 よく知られるように、ナチス政権は福祉国家であったワイマール共和国から生まれました。一つの理屈として、「若者数人が老人を支えている」ということが、ナチスプロパガンダとして使われました。これが当時の若者の熱狂的な支持を受けたのです。障害者や高齢者など、社会的に支援が必要な者たちを切り捨てる論理は、戦争の正当化へと容易につながるのです。

2.有事の際、障害者はより差別を受けます
 私は、阪神淡路大震災を経験しました。震災の当日、避難所になった近くの小学校へ足を運びましたが、そもそも小学校への障害児の入学が一般的ではないため、トイレや体育館の入り口などがバリアフリーにはなっておらず、そこで生活をすることはできませんでした。聴覚障害者は、音声言語優位の社会によって、配給が知らされず、飲食物にありつけませんでした。精神障害の知人は、薬もなく、また避難所のような雑然とした場では休まらないと言っていました。また、知的障害の知人は、避難所で奇声を発するため、「半壊状態でも家が残っているなら、家に帰れ」という差別発言を受けました。同様なことが、東日本大震災においても起こってしまいました。
 安倍内閣は、戦争がしたくてたまらないようですが、このように、有事の際には、平時でさえ厳しい障害者差別がますます激化するのです。戦争は、自然災害とは違い人為的に回避ができるものです。ただでさえ厳しい障害者差別を、戦争状態はより激化させてしまうのです。

3.集団から個人へ――「生きるに値しないいのち」が移った世の中で
 ナチスは、「民族浄化」のために、障害者を殺し、そしてユダヤ人を殺しました。これは言うまでもなく集団という論理における優生学です。現在、「よりよき民族集団」という考え方というのは、一部では残っているものの、科学的には否定されたものです。しかし、そのかわりに、個人を軸にする優生学と言うべきものが現出しています。その典型的な例が、障害児であるとわかれば中絶をするような、いわゆる選択的中絶と呼ばれるもので、「妊婦やカップルの自発的な選択であれば、たとえその結果が優生学的なものであるにせよ、非難するには当たらない」というものです。それとまったく同じような論理で、「患者が死にたいと言えば、治療を中止した医師が自殺ほう助には問われない」ことを柱とする通称「尊厳死法案」の国会への上程が何度も目論まれています。
 障害者が「生きるに値しない生」なのではないのです。
 社会の都合によって、障害者が「生きるに値しない生」にさせられるのです。
 このような状況の中で、戦争状態になれば、障害者が必ず最初に殺されるのは、火を見るよりも明らかだと言えます。

 障害者は、いろいろな他人の力を借りてしか生きることができません。しかし、だから弱いのではありません。そのような生き方を弱い生き方だと決めつけるのは、この社会のほうなのです。他人に生活をなかば預けても、自立した生活ができるのは、他人と話し合い、意見が違ったとしても共存できることを、障害者たちが身をもって示してきたことでもあるのです。意見が違うとき、武力をもってその解決を図るほうが、よっぽどもろい社会であると言えるのではないでしょうか。
 私は、障害者の立場から、障害者が地域で安心して自立生活を営むことができるためには、どうしても戦争法案を廃案にしなければならないと考えます。

                       2015.09.01 野崎泰伸