東京新聞2月3日付「時代を読む」を読む

貴戸理恵さんの「若者の生きづらさは財産」という記事ですが、私はたいへん違和感を持った。
まずは、現状認識。このあたりはまったく貴戸さんと同じである。私もまた、貴戸さんと同じ意味において「若者バッシング」を批判したい。

「生きづらさ」を抱える若者が多い。内閣府が実施した平成二十四年度「若者の考え方についての調査」(困難を抱える子ども・若者への支援等に関する調査)によれば、十五歳から二十九歳までの若者の53・8%が「社会生活や日常生活を円滑に送ることができていなかった経験」を持つと認識しているという。これには、不登校、高校中退、ひきこもり、ニートといった状態の経験が含まれている。「今どきの若者は、打たれ弱い」と見る向きもあるかもしれない。だが、背景には、安定雇用の切り崩しなどによって、「○○していれば、よい人生が送れる」という見通しが立ちにくくなった状況がある。学校を卒業しても、仕事があるとは限らない。まじめに働いても、キャリアアップの望みは薄い。余裕をなくした学校や職場は、ときにいじめやハラスメントの温床となる。こうしたライフコースの不透明化は日本だけでなく、先進工業諸国に共通する現象だ。背景を見ずに、若者個人を責める「若者バッシング」は、明らかに的外れだ。

しかしながら、貴戸さんは、次のように「若者が抱えざるを得ない生きづらさ」を、なかばポジティブに解釈しようとする。

他方で、それを踏まえてなお、日本に暮らす若者の多くが「生きづらさ」を抱えているという現実は残る。この現実は、マイナスだろうか?私は必ずしもそうは思わない。なぜか。「生きづらさ」は、あるべき理想像と実際の自分の間に距離があり、自己イメージがうまく結べないときに、生じる。たとえば、不登校やひきこもりを経験する人は、しばしば「登校するべき・働くべき」という規範意識を持っており、「そうできていない自分」に苦しむ。その「自分はダメだ」という思いが、ますます本人を「次の一歩を踏み出す」ことから遠ざけている場合も少なくない。

「「生きづらさ」は、あるべき理想像と実際の自分の間に距離があり、自己イメージがうまく結べないときに、生じる」。私は、それだけではないように思うが、かりにそこに乗っかるとしても、次のような疑問が生まれる。「「登校するべき・働くべき」という規範意識」に苦しむのなら、そうした規範意識を生み出すものは何なのかについて問わねばならない。貴戸さんは「ここでポイントになるのは、「苦しみが生まれるのは、規範意識を持っているからこそ」という点だ。人からどう見られるかを気にして、悩む」と続けるが、その反面、「それは、「生きづらさ」の源泉である一方で、「この社会」の一員として生きるうえで欠かせないものだ」とも言っている。つまり、規範意識の内実を問うことなく、その規範意識によって苦しめられもするが、逆にその規範意識によって紐帯を感じることもできるのだ、と述べているように私には思われる。

同じ問題に向き合う他の先進工業諸国では、こうはいかない。たとえばフランスでは、高校生の深刻な出席率低下を受けて、二〇〇九年十月に「クラス全体で出席率や成績アップの目標を立て、達成したら、最高で年間一万ユーロの報奨金を支給する」という制度が導入された。報奨金は「クラス旅行」「運転免許取得費用」などに使えるとされた。背景には、学校からのドロップアウトが暴動などの社会不安につながる、との見方があった。ここでは、すでに「学校に行かなければならない」との規範意識がないことが前提になっている。

ここで貴戸さんの論理は少し変節している。先ほどは、規範意識は「「生きづらさ」の源泉」ではあるが「生きるうえで欠かせないもの」と述べておきながら、ここでは規範意識の有無が問題になっているように私には思える。「そう考えれば、若者の「生きづらさ」は、日本社会の財産だ」と貴戸さんは続けるが、それでは規範意識を「生きづらさ」と「欠かせないもの」に分けることがまったく意味をなさないように私には思える。貴戸さんも「学校に行かなければならない」という規範意識は間違っていると思っているはずなのである。そうであれば、そう指摘すればよい。
「「登校や就労に向けて叱咤激励する」必要はない。その重要さを十分に分かっているからこそ、苦しいのだから」。ここも、「誰にとって、どういう意味において」重要なのかが問われないといけない。私は、登校や就労に何よりも価値を置く社会というのは、間違っていると思う。それ以上に価値を置かなければならない、生命や存在というものがあると私は考えるからだ。だから、私たちがよりクリアにしなければならないのは、登校や就労がなぜこの社会において重要とされるのかという主題ではないのか。「学校に行かなければならない」「働かなければならない」、その価値の源泉を考えられるところまで考え抜くことが重要なのである。ただ、「当たり前だから」だとする論理ではうまくいかない。これは、貴戸さんの一連の著作にこそ教えられたことでもある。

むしろ、「生きづらさ」が根付いているうちに、学校や仕事を、多くの若者にとって開かれた、意味あるものにしていくことが大切だ。そうでなければ、やがて若者は失望し、「生きづらさ」を通り越して、反社会的になるだろう。そうすれば、本当の意味で「登校規範、就労規範」を一から根付かせなくてはならなくなる。その時間的・金銭的コストの高さは、現在の若者の学習・雇用環境の整備の比ではないだろう。

最後のところも、私には意味不明であった。「「生きづらさ」を通り越し」た「反社会」性とはなんだろう? そうなることは、悪いことなのか? 私の答えは、「「そうするのは当たり前だから」学校に行かなければならない、仕事をしなければならないとする価値観は間違っている」、「生命や存在を基底にしながら、それよりも劣る価値として学校や仕事の大切さを考えていくことができる」というものである。規範意識を、その内実を問わずに「欠かせないもの」とするのではなく、その規範意識じたいの正邪を問うことが必要であると、私であれば考える。