極私的震災体験

9月11日に研究会、10月1日に学会大会で阪神淡路大震災のことを話さないといけないのですが、そのときのために自分自身の被災体験を書きました。両日とも、ここまで詳しくは話さないとは思います。

なお、ひとの震災体験というのは、とてもナイーブに響くものですから、いちおう続きを閉じておきます。


震災前夜の1995年1月16日、私は翌日提出予定の「確率論」のレポートをしていた。当時私は神戸大学理学部数学科3回生、学生だった。前年夏に神戸に下宿したところであった。実家は尼崎であり、神大まで通えないことはない。だが、大学1年より関わることになった神戸の障害者たちの自立生活を目の当たりにし、自分もなんとか親を説得し、一人暮らしを始めたのである。

日付が変わって17日、レポートが終わって寝たのは午前3時。どうせ昼からなので、朝はゆっくり寝れる、そう思っていた矢先、ベッドの上の私を激烈な縦揺れ、横揺れが襲って目を覚ました。窓から差す街灯からの光の位置、影の範囲がいつもとは違い、不思議に思い、夜明けを待った。

家の中が言葉もないほど散らかっていた。地震である、すぐに気づいた。とにかく玄関まで行った。ドアがきちんと開くか確認した。ベッドからドアまで進むにも苦労した。幸い居住していたマンションは大丈夫だったようだ。

手元に携帯ラジオがある。つけてみる。アナウンサーも余震のたびにうろたえる。私の住んでいた地域が激震地区(震度7)であったことに驚く。家の中をとにかく整理せねばと思い、余震の中、倒れた冷蔵庫やテレビ、食器棚などを起こし、ガラスの破片を片づけた。昼過ぎまでかかった。近くで火災のにおいもする。救急車や消防車の音もする。

ひと段落して、表に出た。そこで目にしたのは、見るも無残な姿だった。下宿してからいつも行っていたスーパーの1階がない。1階がつぶされ、2階が1階になっていた。また、隣の同じようなマンションが倒壊していた。そこの住人であろう若い女性が1人、毛布にくるまって泣いていた。とにかく私は食料をもとめに、近くのコンビニに行った。行く道すがらにも倒壊した家が点在している。これはすごいことになるぞ、と直感した。当然、コンビニに食料はない。ガラスの割れた、誰もいない「空の」店舗がただそこにあった。

ラジオの情報では、避難所らしきものがあるらしい。私は、近くの小学校に行った。校門の前で、近くに住んでいた知り合いの精神障害の人に出会った。彼は「ここは障害者が避難することができないし、配給も終わったところ。いっしょに六甲デイケアセンターに行こう」と言ってくれた。その前に、彼の家も見せてもらった。一見家だともわからないほど壊滅的な被害を受けていた。おそらくは生活保護受給者だった彼は、安い借家にしか住めなかったのであろう。そして私たちは六甲デイケアセンター(以下「六甲」)を目指した。

「六甲」とは、神戸市東灘区にある障害者の昼のたまり場のようなものである。私も先輩に連れられ、大学1年からかかわっていた。私が行ったとき、すでに障害者メンバー、職員、かかわっていた近くの被災学生などが10名ぐらい避難していた。助けを求めているメンバーのところに行っている人もいた。そこは、大阪にもネットワークがあり、震災当日の夜には大阪から支援物資が届いた。物資を届けに来た人は、西宮北口までは電車で、それ以西は線路を歩いてきたと言う。西宮、芦屋、神戸と、激震地区を歩いてこられ、被害の様子を語ってくれもした。夜はろうそくの灯で支援物資を頂いた。職員にろう者がいるため、すべての会話は音声と手話でなされていたが、のちに笑い話として語られたのが、ろうそくの光のもと、手話で話すと意外と怖いということであった。

2日目、支援物資も届くが、届けてくれた人とも一緒に、いくつかの部隊に分かれ、被災した障害者の見回りに行く。私は、神戸大学で支援団体を発足するという話を聞いたので(のちの「神戸大学震災救援隊」「神戸大学総合ボランティアセンター」)、そこの集まりに参加した。具体的な内容はほとんど覚えていない。
その夜、大阪で被災障害者の避難所を用意したという話を聞いた。私は、先陣を切って避難させてもらうことにした。翌日、近くの生協が開いたことを聞きつけ、「六甲」が当座必要なものを買い出しに、私ともうひとりの障害者とで買い出しに行った。私はその後、「六甲」の車で、数名の障害者家族とともに大阪に避難することにした。

神戸市内はいままで見たこともないような光景で、車も迂回を余儀なくされた。だが、西宮を越えたあたりから、ところどころには倒壊の爪痕はあるものの、徐々に建物が並び始める。そして、震度4だった大阪市内の震災から3日後の姿は、ほぼ元通り、電車も通常通り運行していた。私は、このあまりにも違い過ぎる光景に、吐き気を覚えた。

大阪の避難所に着いた。ここで私は、実家に電話するよう勧められた。神戸からでは電話もかからないことが多かったため、実家に連絡しないでいた。実家も、倒壊は免れたものの、のちに取り壊したほど内部の破損が酷く、全壊認定を受けることになる。以前住んでいた父親の社宅に避難しているらしく、また、尼崎市内は交通機関ライフラインも大丈夫だったことから、大阪にいても一人分の食料を食いつぶすだけだと考え、大阪から実家の避難先に帰った。その後、私も実家の再建計画を考えることになった。実家の避難先から神戸の下宿先に戻ったのは、新学年が始まる4月のことであった。

4月からは、学校に通いつつ、新開地に事務所があった「自立生活センター神戸Beすけっと」で事務のアルバイトをした。障害者福祉行政もいまだ混乱していたので、事務仕事が非常に大変だったことをよく覚えている。仕事終わりに、事務局長に連れられ、兵庫区の須佐野公園にあった「被災地障害者センター」のボランティアたちと夕食を食べたりしていた。その後、1996年6月から(当時大学院生)、被災地障害者センターのほうでアルバイトをすることになる。翌1997年3月、大学院を中退し、4月からセンターの専従職員として働くことになった。