極限状態に置かれた個人の「主体性」について

(以下、草稿)

はじめに
 この世界をいくら不条理であると感じたとしても、生きている限りにおいてはこの不条理に感じられる世界を生き抜いていかなければならない。この社会がいくら不正義であるとしても、生きている限りにおいてはこの不正義な社会を生き抜いていかなければならない。
 理不尽な現実を前に、それでもそのただなかを生きていくということは、どういうことであろうか。これが本論の関心である。ただし、その前に確認しておくべきことがある。それは、本来ならば誰もが不条理を感じることのない世界に住み、不正義な社会に耐え、そのなかを生き抜く必要などないのだということである。これは非常に大事なことであるので、折に触れ確認することにもなるだろう。
 これはまた、次のようにも言い換えることができる。個人が極限状態に置かれ、その中で本当はどのような行為の決定も当人にとっては望ましくないが、それでも行為を決定し、実際に行為することがあるだろう。生きていくために、しかたなく何らかの行為をしたり、あるいは行為しないことを選ぶことで自らの身を遇することがある。このような中では、行為のよしあしを問うことはそもそも不可能であるし、個人をこのように適応的選好の中へと追いやる社会は、望むべき社会とは言えないだろう。
 ただし、このような望むべきでない社会とは、現にある社会でもある。極限状態に置いて個人はこのような適応的選好を強いられる社会を生きていると言えるが、しかしまたそのとき当人は没主体的である、というのも言い過ぎであろう。限られた選択肢の中においてではあったとしても、なお行為を選択しながら自らを処する姿を没主体的であると称するのは、不遜ではなかろうか。
 本論では、このような関心のもとで、極限状態に捨て置かれた個人の、いわば「主体性」とでもいうべき諸相を考察していく。