公正としての正義と脱構築としての正義

正義とは何か。この問いにとりあえず、「人が人として扱われている状態」だと答えることにしよう。すると、矢継ぎ早に次のような疑問がわく。ここでいう「人」や「人として」が意味するものは何か、と。「人」ではなく「動物」あるいは「生物」ではダメなのか。あるいは、「人として」扱われるというのは、いったいどういうことなのか。
結局、正義の問題というのは、境界の問題に大きくかかわる。自由や平等というとき、「誰/何」にとっての自由か、「誰/何」と「誰/何」との平等か、ということが問われるからだ*1
J.ロールズのいう「公正としての正義」、あるいはロールズ産業(ロールズ批判を含めて)の果実であるリベラリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズムなどは、そのほとんどが「ある集団における正義」というときに、集団を固定化する。実際ロールズは、障害者や動物の権利の問題を「難しい」として棚に上げる。

A Theory of Justice: Revised Edition (Belknap)

A Theory of Justice: Revised Edition (Belknap)

ロールズも確かに「他者」の問題は考えている。ただし、その他者概念は、あくまで交換可能性を前提にしている。正義の境界を固定し、その境界の内と外で交換可能な「他者」のみが、正義という名の傘の下に入ることができる。そこでの肝は、境界の正当性が固定されていることにある。ロールズの想定する他者は、その意味で「想定可能」なもののうちに留まる。その大枠において、いわゆる規範理論を扱う倫理学は、きわめて静的なのである。
たとえば私は、ひとりでなんとか歩けるが、傾いて歩いたり、緊張が入るので、顔が歪んだりする。それだけでも身体的にしんどいのだが、歩いていると子ども扱いされたり、馬鹿にされたりする。私は大学の講師をしていたりするが、キャンパス内で学生にそれとなくからかわれたりもする。そのときの屈辱感というのは、たまらない。しかも、いつそのような目に遭うのかもわからないし、これでも小心者なので、けっこう怯えながら街中を歩いていたりする。こんな人と、「普通に」サラリーマンやってたりする人とを、誰が交換可能だというのだ。私は、その意味においてけっして「人として」扱われているわけではないだろう。逆に、「人でなし」として生かされているからこそ、「人として」扱ってもらっているような逆説がある。つまり、私を正義の埒外に置くことによって、この社会はリベラル的な正義、すなわち「メンバー内の公正としての正義」を保っていられるのだ。このことは、横塚晃一によってすでに1970年代に指摘されている。
母よ!殺すな

母よ!殺すな

ところで、G.アガンベンは、法外のものを「聖」と名指すことにこそ権力のみなもとがあると指摘した。権力があるから名指すのではなく、名指すことそのものが権力であると喝破する。そのように名指された「ホモ・サケル」は、どんな法をも超越する「無敵」な存在であるが、逆に、そのように名指されることでかれは徹底的に能動性を奪われる、そんなふうに主張する。
ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生

ただ、私の感覚でいうと、「徹底的に能動性を奪われる」というより、すなわち「人でなし」というのは、ただたんに受動的な存在に貶められる、というだけではなく、もうすこし違ったものも感じるのだ。能動性というより、私のなかの、なにか大切なものを根こそぎ奪われてゆく、あるいは「お前はもう生きていてはいけない」という感覚を与えられる。その意味において、たとえば性犯罪被害に遭った小林美佳の言表とはかなり感覚的に一致するものがあった。
性犯罪被害にあうということ

性犯罪被害にあうということ

おそらく、私が考える正義というのは、この「誰かが大切な何かを根こそぎ奪われていく過程」に抗し、そうすることで、「誰もが生きていてよい」と感じられるようなものに直接的に関連するのだ。そして、その過程において、リベラリズム的な正義は意味をなさない。そもそも、そういう話を「想定外」とすることによってしか、理論構築できない仕組みになっているからだ。だから、リベラリズム的な正義だけで、正義の全貌を語ろうとするのは、理論上無理がある。
確かに、現実には法秩序は大事だし、法を変えて新たな仕組みを作ることというのも、外見上はリベラリズム的正義に基づくものだと言わざるを得ない。しかし、「いま、ここ」において絶対的に捨ておかれている人たちにとって、そうした大人しい路線とは別のところで、「なぜ、そのような大人しい路線を私たちは受け入れなければいけないのか」と言いたい面もあることは事実だ。持続可能な福祉社会という「きれいごと」に対し、「現在の差別的な社会など、持続してもらわなくともよい」と言いたい面もある、そういうことなのである。
「いま、ここ」で「大切な何かを根こそぎ奪われている者」は、もちろん、障害者や性犯罪被害者だけではない。不登校・ひきこもり、ニート、在日韓国・朝鮮人、女性、部落出身者、性同一性障害、過重労働、……ことばとして思いつくだけでも、たくさんある。「徹底的に奪われし生」から思考する正義というものは、きっと動的なものなのだ。私はJ.デリダのいう「脱構築としての正義」というのは、きっとこのような「特異者」の視点から考える正義なのだと直観している。
法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

*1:そもそも何が自由で、何が平等なのかという問いは、ここでは置いときますが。