篠沢秀夫――「正しい」保守の使い方

「巨泉のクイズダービー」でおなじみだった、学習院大学の名誉教授。昨年の2月に、ALSであることがわかり、闘病生活が続いているという。

本日「ひるおび」に出ていたが、氏の元気そうな姿は何よりよかったし、人工呼吸器や胃ろうをつけながら生活しているときっちり報じられていたので、同じ病気の患者たちは「映像」だけでも勇気づけられたに違いない。

そのことをまったく否定しない。そのうえで、いくつか考えておきたい点もある。
氏は「あるがままの姿で楽しく生きたい」という。それはもっともなことである。ただ、氏は(ブランショの研究者にして)保守的でもある。日本では、アニミズム的な「いのちの崇拝」を、むしろ保守こそが好むという「ねじれ」現象がある。その意味で、氏も「正しく」保守であり続けていると思う。

ただ私は、生死に関する保守/ラディカルとか、儒教キリスト教、あるいは日本(東洋)/西洋という二項対立でものごとをとらえないほうがよいと思っている。対立軸はそこにはない。「どんないのちでも肯定するのか否か」こそが対立軸であろう。

次に、氏はよい医者に恵まれたと思う。そしてそれはよいことだ。ALSを発症して、人工呼吸器や胃ろうを積極的に患者に勧める医者はそうはいないのだろう。このことが患者に絶望を与えたりする。むしろ「生きていてほしい」と願うのは周りのほうだ。日本は、人工呼吸器で在宅生活を送る割合が欧米に比べて高いとも言われる。その状況に甘んじることなく、医師にはぜひ人工呼吸器と胃ろうで生きられることをもっとアピールしてほしいと思う。

気になったのは、どうしても「介護=献身的な家族(とくに女性)」の図がマスコミ(ひいてはわれわれ)は欲しいということである。そこでは身にしみついたかのように家族規範、ジェンダー規範が表出される。そして、「家族(妻)なんだから世話するのが当たり前」という意識を醸成し、「介護は献身的で暖かくあるべき」という規範を形成する。今日の放映では、ヘルパーの「ヘ」の字も出てこなかった。家族=愛の空間という幻想は、それぐらい強固である。一刻も早く、患者が安心して療養できるような社会サービスを打ち立てる必要がある。そのうえで、家族同士が愛し合ったり、ののしり合ったりすることを否定しなければよい話である。