地震と震災

15年前の阪神・淡路大震災は、甚大な被害をもたらした。当時、私自身も東灘区で震災を経験した。
当たり前のことを確認したい。地震と震災とは区別すべきものである。地震は文字通り「地面や地盤の震え」であるから、その構造の解明には、地学的なアプローチが必要である。これに対し、震災とは「地震による被害」のことであり、地震によって失われるところの人的・経済的・精神的・社会的関係性を意味する。だから、地震の規模それ自体とは、巷で言われるほどにはあまり関係はない。規模が小さいからといって、被害が少ないということはない。むしろ、地震の起きた地域がどの程度「成熟」しているのかに関係する。そして、これはただ「人とのつながり」にすべてを還元すべき問題でもない。そうではなくて、すべての基盤となるのは、その地域にいかに民主主義的な発想が浸透しているかなのである。

アマルティア・センは、次のように言っている。

飢饉は飢餓を意味するが、逆は真ならず。そして飢餓は貧困を意味するが、その逆もまた真ではない。(中略)貧困とは、(中略)絶対的窮乏と対照的な相対的剥奪を反映し得る概念である。したがって、深刻な飢餓が生じていない時ですら貧困は存在し得るし、極貧とみなせることもあり得る。一方、飢餓は貧困を意味する。なぜなら飢餓の特徴である絶対的剥奪は、相対的剥奪という観点から何が言えるかに関わりなく、貧困と診断されるのに十二分だからである。(p.61)

貧困と飢饉

貧困と飢饉

地震は、天変地異であり、その意味において「絶対的」なものであるだろう。だから、地震の起きた地域が大変なのは当たり前のことだ。ただし、地震など起こらなくとも、震災に相当する、いやそれ以上の相対的な「被害」はあり得るし、その意味において「絶対的」なものだけを誇大に宣伝し、たとえば生活保護が受給できずに飢え死にした人たちのことを過小に評価するのは、許されない*1

私たちにできる「震災対策」とは何か。それは、「震災経験を語っていくこと」のようなことだけではなく、それを通して、あるいは通さずとも、「民主主義をより徹底させていく」ということではなかろうか。被害の経験は、語りたくなければ語らないでよいし、「雄弁に」語る被災者を「英雄」扱いしてはいけない。そのことは、黙することでしか震災の経験をやり過ごすことができない被災者をより苦しめる*2。それに対して、民主的な議論を通して、世の中をよいほうへと変えていくことを是とするところでは、意外にも震災からの「立ち直り」は早かったのではと思う(たとえば、私自身も微力ながらかかわった、「障害者による震災からの復興・救援活動」を見よ。その断片は、『障害者はどう生きてきたか―戦前・戦後障害者運動史』や、『ボランティアが社会を変える―支え合いの実践知』で一般書店に流通している)。

*1:この意味において、「復興は終わった」なる言説は、下劣である。

*2:だとしても、語りたければ語ってもよい。大切なことは、語りを特権化しないことである。